八正道の「正精進」をわかりやすく解説しました

あああ

正精進(しょうしょうじん)とは、正しく道に精進することです。

では正しく道に精進するとはどういうことでしょうか。それはお釈迦さまが示された道を実践することです。

お釈迦さまが長い転生を重ねてこられた中で発見された道理という法則、そしてその法則に沿った調和の生活、すなわち中道という道をお釈迦さまが示されました。この道を進んでいくことが正精進なのです。

ここでは道理という法則、そして道理に沿った中道の道をどのようにして実践していくかを見ていくことにします。

この世は見えない法則によって成り立っている

私たちは今この地上で生活をしています。両親がいて、兄弟姉妹、夫婦、隣人、先輩、後輩との関係の中で生活をしています。考えてみれば分からないことだらけですね。なぜこの両親から生まれたのか。なぜこの時代に、この土地に生まれたのか。

これはすべて偶然なのでしょうか。普通にみれば偶然にも思えますが、偶然というには無理がありそうです。

私たちの身の回りをみますと、さまざまな法則によって成り立っていることが分かります。

たとえば、日本では街中を走る車は道の左側を走ります。赤信号で止まり、青信号で発進します。当たり前の話ですが、もし運転手がみんな好き勝手に自分の思い通りに走ったなら事故が絶えないことでしょう。そしてあちこちでケンカも始まることでしょう。

きちんと交通の秩序が保たれているということは偶然ではありませんよね。道路を走るための法律がきちんと定められていて、運転手はそれを守っているからこそ交通の秩序が保たれているのですね。

自然に目を向けてみましょう。
地球は太陽の周りを回っていますよね。一定の傾きを保ちながら、決まった軌道を一定の速度で回っています。そのおかげで私たちは一日の始まりも終わりも、春夏秋冬の季節も規則正しく迎えることができるのです。寸分の狂いもありませんね。

もし地球の動きに規則性がなくなれば、私たちの生活は成り立たなくなります。朝はいつ来るか分からないし、いつ日が沈むかも分かりません。夏が来たかと思えば突然冬がやってくるかも知れません。こうなると生活が成り立たないどころか、生きていけないですよね。

寸分の狂いもなく、地球を始め太陽や他の星が規則正しく動いているということは、やはり偶然で片付けるにはどうしても無理があります。

そこには大いなる法則が存在すると考えざるを得ません。そしてその大いなる法則によって宇宙の秩序が保たれ、私たちは生きていくことができるということになるのです。

では、その法則は誰がつくったのでしょうか。誰がいつ何のためにつくったのか、その中で私たちは何のために生かされているのか。

それをお釈迦さまは道理という法として発見され、悟られたということではないでしょうか。

諸法は無我である

お釈迦さまが悟られた法には自我というものがありません。自我とは「正命」の中でも出てきましたが「俺が」「私が」という、我欲の思いです。

自分の体に例えていえば、胃が「自分は食べものの消化なんてしたくない」と言ったり、心臓が「僕は血液を循環させるなんて真っ平だ」と言って自分の役割を果たさず我を通したらどうなるでしょうか。いっ時も体を維持することはできなくなります。

宇宙が自我を持たずに法則に従うことで成り立っているように、それぞれの器官が与えられた役割を果たすことで体が維持できているということから「人体は小宇宙だ」といわれているのです。

このように、自然の中に生きる法には自我がないことを「諸法無我」といい、自我がないからこそ、この人間を含めた大自然が成り立っているということが分かります。
(余談ですが、般若心経の「色即是空、空即是色」にもつながってきます。)

ということは、自我を持っているのは人間の心だけということになります。そしてこの自我の思いが欲望、執着を生み、苦悩や迷いに喘いでいるということになるのです。

正精進は、この苦悩や迷いから離れ、中道の生活を実践することにあります。

三宝帰依の生活をする

中道の生活を実践するとはどういうことでしょう。それは心が安らぐ拠りどころを持って生活するということです。お釈迦様が拠りどころとして示されたものに「三宝帰依(さんぽうきえ)」というものがあります。聖徳太子の十七条憲法にも出てきましたね。いわく、あつ三宝さんぽううやまへ。…」と同じものです。

帰依とは信じること

「三宝」とは仏、法、僧を指します。「仏」とはお釈迦様のことであり、「法」とはお釈迦様が説かれる正法、そして「僧」とはお釈迦様の教えを信じて行ずる信仰者のことです。
「帰依」とは信じること、その偉大な力に依ることです。

よって、「三宝帰依」とは、「お釈迦様と正法の教え、そしてその教えを共に学ぶ信仰仲間を信じ、行じていく」ということになります。

人間は現実に翻弄されやすく、独りでは世間の業の渦に巻き込まれてしまいがちです。そこで同じ信仰を持つ仲間たちが集い、ともに学び精進していく必要があることから「仏」「法」の他に「僧」も含めたのでしょう。

信は力を生み出す

信じるということには力が伴います。信じて行えば物事はうまく運ぶでしょうし、不信を抱きながら物事を進めても行き詰ってしまうでしょう。そして信が強ければ強いほど大きな力を発揮することになります。

大事なのはその信がどこから来るかということです。

自己本位の思いを達成するための信であれば、さまざまな魔が近寄ってくるかも知れません。その魔力によって一時的には目的が達せられるかもしれませんが、いずれ大きな反動が返ってきて苦しめられかねません。それに対し、自分のことは脇へ置いて他を思いやり、生かすための信であれば、天から勇気や智慧が与えられて目的が無理なく達成に向かうことでしょう。このように信の力はとても強いものですが、その中身によって結果が大きく変わります

こうみると三宝帰依の生活とは、他を生かす信による調和の生活ということになります。

調和の思いに切り替える

他と調和するためには、自己本位の思いから他を生かす調和の思いへと切り替えていく必要があります。

  1. 衣服は自分を着飾って見せるためではなく、礼をもって暑さや寒さをしのぐためである
  2. 住居は自身の虚栄のためではなく、風雨から守るためである
  3. 父母は大恩人であり、敬うことから道理が始まるものである
  4. 家族は愛着の対象ではなく、菩提に至る基礎である
  5. 怒りの心は魔であり、笑いの心は仏である
  6. 戸締りをするのは盗人から身を守るためではなく罪人を作らないためである

このように思いを転換することで自分の心を毒さないだけでなく、周りとの調和が図られ安心の生活を送れるようになってきます。

人間は神ではありません。仏でもありません。自分の魂を磨くためにこの世に生まれてきたのです。ということは、人間は誰一人として修業の過程にない者はいないことになります。

自己本位に走らず、他との調和を図りながらお釈迦様が示された正法を実践することが修業であり、それが正精進の実践ということになるのです。

まとめ

以上のことから、正精進をまとめると

  1. この世は大いなる法則によって成り立っている
  2. その法則には自我が無い
  3. 自我が無いからこそ宇宙が成り立っている
  4. 自分の心からも自我を無くし、他を生かすこと
  5. 他を生かすためには調和の思いに切り替えることが必要
  6. 調和の生活を実践することが正精進である

ということになります。
ご参考にしていただければ幸いです。