八正道の「正見」をわかりやすく解説しました

正見とは、ものを正しく見ることです。一般的に良いことは正しく、悪いことは間違いということになりますが、良いことといっても人や立場によって異なりますよね。ものの値段一つとってみても、消費者からみれば安い方が良いでしょうし、売る方からしたら高い方が良いにちがいありません。

こう見ると「良いこと」イコール「正しい」とはいえなくなりますね。

このように、立場や状況によって価値観が変わるものから本当の正しさを見つけることはできません。今現在正しいといわれているものが、いつ正しくなくなるか分からないからです。

正しく見るためには、ある一定の尺度というものが必要になってきます。以下にその尺度となるものを挙げてみます。

色眼鏡を外す

外見で判断しない

ものを正しく見るには、まず外見で判断しないことが必要です。五官による判断は、その時々の心理状況や価値観によって変わるものです。ものの内面を見るようにすることです。

肩書や名声を取り去った状態で見る

例えば人を評価するとき、学歴や肩書き、収入などを基準にしていないでしょうか。結婚する相手となれば生活を共にするわけですから、ある程度の収入は必要でしょう。肩書きもその収入の元になっているかもしれません。

しかしこの社会情勢がめまぐるしく変わっている現在、いつどんなことが起きるか分かりませんよね。絶対つぶれないといわれた大企業もカンタンにつぶれてしまう現実を見ると、今の肩書きも収入も一気に吹き飛んでしまいかねません。

「金の切れ目が縁の切れ目」としてお付き合いをやめるとか、夫婦なら離婚するとかになってしまうとお互いのためにならないし、価値ある人生を送ることはできません。

人を見るときは、学歴や財産、肩書き、名声などを取り去ったあとの、素顔の相手を見定めることが大事だといえます。

他人の評価は参考程度にとどめる

たとえば、AさんのことについてBさんから良からぬ噂を耳にしたとします。すると自分はAさんのことをよく知らないにも関わらず、Aさんに対して良くない印象を持ってしまうことはないでしょうか。

良いことであれ悪いことであれ、Bさんの話を鵜呑みにしてしまうことは避けなければなりませんね。Bさんと自分とで好みや環境、習慣が異なれば価値観も変わってくるからです。

他人の意見は参考にとどめておき、自分の立場で客観的にものを見るようにしたいものです。

素直にものを見る

自己の立場を捨てて第三者の立場でものを眺める

他人の問題については比較的冷静に正しく判断ができるかもしれませんが、いざ自分の問題となるとなかなかそうはいきません。利害関係が絡んでくると冷静さを失い、なかなか正しい判断ができなくなってしまいます。知らない間に自己保存の思いが働き、我欲に左右され、相手のことはどうでも良くなるからです。

ものを正しく見るには、いったん自己の立場を捨てて第三者の立場でものを眺めることが大切です。

共通の立場に立って客観的視野を育てる

もともとお釈迦様が提唱された「正見」の根底には宇宙意識があり、全体を生かす立場に立つというものですが、なかなか実行できるものではないですよね。「言うは易し、行うは難し」です。

そこで相手と自分の共通の立場に立ち、相手を思いやる気持ちで物事の流れに逆らわずにものを見ていくことが、正見の最低条件になってくるといえます。

思想や信仰、主義主張を見極める

家庭によっては代々続く信仰があったり、ある特定の主義主張を持っていたりします。この人たちには一定の観念が根底にあるため、自分とは異なる思想や考えかたを容易に受け入れられないことがあります。

そこでその信仰や思想が、本当に自分たちの幸福につながるものかどうかを判断する材料として、以下の項目を挙げてみました。

  • お互いの主権を侵さないものか
  • 相手に恐怖感を植え付けてしまわないか
  • 話の前後に矛盾は無いか
  • 押しつけが無いか
  • 客観性を欠いていないかどうか

信仰や主義主張を持つことは悪いどころか、むしろ良いことだと思いますが、これらのような要素が一つでも二つでも含まれているとすれば、やはりその信仰や主張には無理があるということになります。

これらの要素を照らし合わせてみて、その信仰なり主義主張が正しいかどうかを見極めることが必要です。

肉体にも精神にも偏らない

我々の生活は肉体的、精神的なものの両面から成り立っています。肉体的なものばかりにウエイトをおくと心が荒んできますし、精神的なものに偏り過ぎると実生活に支障をきたします。

お釈迦様が悟られる前、肉体行に明け暮れて骨と皮だけになったとき、次のような歌を耳にします。

弦の音は強く締めれば切れてしまい
弦の音は弛めると音が悪い
弦の音は中ほどに締めて音色が良い

この歌を聴いたとき、お釈迦様は肉体にも精神にも偏りすぎてはいけないと気づかれたそうです。肉体行に偏りすぎて体を壊し、悟る前に死んでしまっては元も子もありません。

何のために生まれてきたのかということになります。

この世にいる限りは食べるものは食べて肉体を維持し、精神とのバランスをとりながら生活することで、正しいものの見かたが養われてくるということです。

感謝の気持ちを忘れない

正見によって心の安定と幸福を手に入れるためには、常に感謝の気持ちを心の底に持っておく必要があります。感謝の心が無いと知らぬ間に相手を責め裁き、自分は正しいのだという感情が頭から離れず、正見からは程遠い世界に行ってしまいます。

問題が起こったときは、なぜそうなったのか、自分の性格や考えかたに偏りが無かったかどうかを精査し、間違いがあった場合は素直に認め、改めるということが大事です。

このように、常に自問自答して疑問を追究し、誤りがあれば反省するという姿勢が正しいものの見かたを培っていくということです。

まとめ

以上みてきたように、正しく見るためには

  • 人の外見や肩書き、収入だけで判断するのではなく素顔を見る
  • 他人の噂は聞いて聞かないという姿勢で
  • 自分の立場だけで見るのではなく、相手と共通の立場に立って見る
  • 信仰や思想、主義主張に偏りがないか見極める
  • 肉体にも精神にも偏らない
  • 感謝の気持ち、反省を怠らない

ということが正見の概念ということになります。