八正道の「正語」をわかりやすく解説しました

「正語」とは文字通り、正しく語ることです。
我々が日常生活で語っている言葉は、想像以上に強い力を持っています。人を活かすも殺すも言葉の使いかた一つにあるといっても過言ではありません。

正しい言葉を語ることで人の心を柔和にすることもできれば、不調和な言葉を語ることで相手を不愉快にさせ、不幸にさせることもできます。

言葉はそれ自体生命を持って生きているといえます。

では正しい言葉とはどういうものか、言葉が持つ力とはどれほど強いのかを見ていきたいと思います。

思いと言葉は同じもの

我々は普段何かしら思ったり考えたりしながら生活をしています。寝ているときは別としても起きているときはたいてい何かを考え、思っているものです。

その思いなり考えは、心の中で言葉として発しているはずですよね。発した先の相手は自分自身かもしれませんし、第三者を想定して発しているかもしれません。いずれにせよ「言葉」が使われているはずです。言葉のない想念というものはあり得ないからです。

「正思とは」の記事の中でも「思いは必ず行動、形となって現れる」と書きましたが、これは「言葉」にも当てはまります。言葉も必ず行動、形となって現れるのです。

旧約聖書の創世記にも同じようなくだりがあります。

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。旧約聖書 創世記 第1章3-4

我々の住む地上も、最初は神様の言葉によって形作られたことになります。

こうみると、思いと言葉は同じものといえそうです。

では「正思」と「正語」を分けなくてもいいではないか、と言われそうですね。たしかに思いと言葉の出どころは同じなのですが、「思い」というものは言葉として語らない限り人に伝えることができないものであり、また言葉は力を持ち人々を動かしていくものなので、お釈迦様は敢えて「正思」と「正語」を分けられたのでしょう。

言葉が不要であった時代

遠い昔、まだ言葉が無かった時代にはどのようにして人々は意思を伝達し合っていたのでしょうか。遠い昔は人々の心も澄んでいて素直だったので「思い」だけで他人に意思が伝わり、お互いのコミュニケーションがとれていたのかもしれません。俗にいう「テレパシー」ですね。現在は超能力の一種にされていて特殊な人にしか扱えないものですが、言葉が存在しない遠い昔の人々はこの「超能力」を自由自在に操っていたのかもしれないですね。

しかし時代が過ぎるにしたがって人の心にも自我が芽生えてくると、澄んでいた心にも曇りが生じてきたのでしょう。心が曇り、素直に物事を見ることができなくなると、「思い」がそのまま相手に伝わるというのは都合が悪くなります。

当然ですよね。自分が素直な心で良いことだけを思っていれば問題ないですが、不調和な思いもそのまま相手に伝わると相手は不愉快に思うでしょうし、争いのもとになります。だから神様は、人から「テレパシー」の能力を奪ったのかもしれません。

ともあれ現在は言葉を語ることでしか人に意思を伝達することはできないのですから、調和された平和な世の中にするためには、正しい言葉を使うことが大切だということになります。

陰口には耳を貸さない

「正見とは」の記事でも触れましたが、他人の陰口というのは厄介なものです。

甲さんという人の陰口を乙さんが丙さんに耳打ちしたとします。丙さんは甲さんのことをよく知らないのに、つい乙さんの言葉を信じてしまったとすれば、甲さんに対して偏見を持つことになります。その後、甲さんから乙さんの言うことはデマであって本当はこうなんだと聞いたとすれば、丙さんは甲さんにも乙さんにも不信感を抱き、誰を信じて良いか分からなくなります。

人の陰口というのは、耳には入れても心には残さないようにしたいものです。

人を活かす言葉、殺す言葉

冒頭にも書きましたが「人を活かすも殺すも言葉の使いかた一つにある」というのは本当です。といっても、人を活かすにはただ褒めればいいということではありません。大事なのは言葉を発する自分の心にあるということです。

心にもないお世辞で相手を褒めたとしても相手には響きません。ウソだということがバレバレです。言葉に重みを感じないからです。相手の成功や幸福を思い、心を込めて言葉を語ることで初めてその人の心を動かし、活かすことにつながるのです。仮に誤解されることがあっても、自分に誠意があれば時とともにこちらの意図が理解され、誤解が解けるときがくるでしょう。

逆に相手を殺す言葉というのは、発する側というよりむしろ受ける側によるものが大きいのではないかと思います。加害者意識よりも被害者意識を持つ人が多いからでしょう。何気なく語られた言葉でも否定的に受け取ってしまい、心を暗くしてしまいがちです。それほど人の心は弱く、被害者意識に揺れるものなのです。その最たるものが占いです。

占いはしょせん占い


私の知り合いに、占いを信じてよく通っている人がいます。自分の健康や子どもの進学など、何かあるたびにアドバイス(?)をもらいに行っているのです。そこで良いことを言われたときは喜び、悪いことを言われたときは悲しみのどん底に落ちたような悶々とした日を過ごしているのです。そんな思いをするくらいなら占いに行かなければいいのに、と思うのですが自分に自信が持てないのでしょう。誰かの言葉に頼らずにはいられないようです。

世の中の占い師が皆そうとは限らないのでしょうが、言葉巧みに客を操って安心や不安の感情を煽り、自分の客としてつなぎ止めようとしていることが多いのではないでしょうか。もしそうだとすれば、そんな言葉に振り回されるほど間抜けなことは無いし、そうでなくても占いはしょせん占い、当たるも八卦当たらぬも八卦です。お釈迦様の正語からは程遠い世界にあるものといえます。

とはいえ、私の知り合いのように占いを頼っている人にとっては占い師の言葉は重いものとなります。

彼らを殺すにゃ刃物は要らぬ
ひとこと不安を煽ればいい

といったところでしょうか。

ただ、その占い師が正語を学び、心を込めてお客さんのためを思って言葉をかけるのであれば、占いもまた意味のあるものになるかもしれませんね。

だまされる方にも責任がある

だます方とだまされる方のどちらが悪いかというと、当然だます方が悪いに決まっています。でもだまされる方にはまったく問題がないのかというと、そうとも限りません。

だまされる原因がどこにあったかということです。多くは自分の欲、執着にあったのではないでしょうか。

「この株はゼッタイ値が上がるから投資しませんか」や「この教団の教えはご利益があるからお布施してください」の言葉に乗ってお金を差し出したあとにそれらがウソだと分かると怒り心頭ですよね。でもその怒りの原因は自分の欲にあったからではないでしょうか。

前者は投資によって儲けたいという欲からくるものであり、後者はご利益を得たいという欲があったからでしょう。後者のお布施については、布施する相手がその教団ではなく神様であったのなら、そもそもだまされたという感情すら湧かないはずですね。

自分自身に、第三者的立場に立ってものを見たり思ったりする姿勢が日ごろからできていれば、このようなだまされ方はしないものですよね。

甘い言葉に乗らない自分を磨くことが大切だと思います。

自分の言葉に責任を持つ

自分が言った言葉に縛られてしまうということはないでしょうか。「有言実行」の通り、自分が発した言葉を果たすのは良いことなのですが、自分の言葉に縛られすぎると却ってそれが執着につながってしまいます。自分がこう言ったからこうしなければならない、とかこうあるべきだ、というように心の自由性を失ってしまい、それが後悔や苦悩につながりかねません。

かといって、言うことがコロコロと変わる人も困ります。昨日はこう言っていたのに今日はまったく違うことを言っているとすれば、その人は誰からも信用されなくなります。二枚舌やウソなどは他人だけでなく自分の心を毒してしまい、争いにまで発展しかねません。

このことから、自分の言葉には責任を持つということが必要であることがわかります。

自分から正す

思いにしても言葉にしても、まず自分から正していかなければ自分のものとはなりません。自己中心的な思いや言葉は争いを生むことになり、まず自分から自我の執着の思いを取り除くことが大事だということになります。自分から進んで正しい思いを持ち、正しい言葉を語るように心がけたいものです。

また、自分の周りにいつも陰口や悪口、怒りの言葉や愚痴を言っている人がいれば、その人から離れるということも大事です。類は友を呼ぶことから同じような人が集まってくると、自分の心も毒されてしまいかねません。お釈迦様は「全なる智慧に至らぬ間は友を選び、たえず心を清浄にしておくこと」と戒められたそうです。正しい思いと言葉を語る友を選び、自分の身と心を守っておくべきだということです。

聖書に見る正語

はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言い、少しも疑わず、自分のいうとおりになると信じるならば、そのとおりになる。

マルコによる福音書 第11章23

次に、病気の部下を持つ百人隊長の話です。

百人隊長は友達を使いにやって言わせた。

「主よ、御足労には及びません。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。」

イエスはこれを聞いて感心し、群衆の方を振り向いて言われた。

「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」

使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた。

ルカによる福音書 第7章6-9(抜粋)

このように、言葉が持つ力というのはとても強く大きいものであることがいえます。

まとめ

以上のように、正しい言葉をまとめると

  1. 思いも言葉も同じ 必ず行動、形となって現れるほど強いものであること
  2. 人の陰口は耳に入れても心には残さない
  3. 人を活かすための言葉は、相手のためを思って誠意をもって語ること
  4. 人を殺す言葉は、受け手が受け付けないようにして心に残さないこと
  5. 占いの言葉に振り回されないこと
  6. 甘い言葉にだまされるのは自分に欲と執着があるから
  7. 自分の言葉に責任を持つ
  8. まず自分から思いと言葉を正していくこと

以上のように挙げられます。ご参考にしていただければ幸いです。