なぜ先祖供養が必要なのか

生きているうちが花であって、死んでしまえば何もかも終わり。
死後の世界なんてない。
だから生きているうちは面白おかしく、思う存分楽しまなきゃ。

そう思っている人は少なからずいると思います。
事実、私の友人の中にそう思っている人が何人かいました。

もしそうだとすると、先祖供養は全く意味の無いものとなりますね。
お墓も仏壇も要りません。死体は生ゴミとして処分してしまってもいいわけです。

でもそうならないのは、やはり死後の世界は実在していて、故人にはその世界で安住できるよう願っている人が多いからではないでしょうか。

ここでは、死後の世界は実在しているという前提で話を進めてまいります。そのうえで、なぜ先祖供養が必要なのか、正しい先祖供養とはどういうものかをみていきたいと思います。

なぜ先祖供養が必要なのか

日本人の信仰は先祖供養にあるといっても過言ではありません。
居間に仏壇を構えてご先祖様を祀り、お彼岸になればお墓参りにも出かけます。
また法事では僧侶を招いてお経を上げてもらいます。

なぜそうするかと言えば、ご先祖様を供養することが自分たちの幸福につながると考えているからです。逆に言えば、自分たちに不運や不幸が続いているとすれば、それは先祖供養が足りないせいだ、と思っているからということでもあります。

こうみると、先祖供養とは言いながら、ご先祖様のためというより自分たちのために先祖供養をしており、それが信仰だと思っている日本人が多いのではないでしょうか。

ある意味で、それは正しいかもしれませんが、ここではご先祖様を供養するということをメインに考えていきたいと思います。なぜなら、ご先祖様は私たちが思っている以上に苦しんでいるかもしれないからです。

死んだ人の行き先を見てみましょう。

死者の行き先

この世を去ったあとの故人の魂はどこへ行くのでしょうか。

信仰とは心の進行方向」ですから、自分が生前、何に強く心を向け、信じていたかによって行き先が決まってきます。

地位や名誉に心が動き、相手を蹴落としてでも自分の立身出世を望み、人を思いやることなく人生を終えた人は「修羅界」へ行くことになります。

修羅界においては、お互いの地位や名誉の奪い合いですから争いが絶えません。それも自分と同類の人種の集まりですから、この世以上に争いは激しさを増してきます。またお互いが信頼し合っていないため、常に孤独です。

ある霊能者と言われる方から聞いた話です。

戦国武将として今も人気の高い豊臣秀吉という人は生前、権力欲がとても強く、その権力を守るためにいっときも心が休まらなかったことから、死後は修羅界に落とされ、今も苦しみ続けているそうです。

暗いお城のようなところに独りポツンと置かれ、うとうとした途端、天井や壁、ふすまなどから呪われた人々の顔が現れ、秀吉の地位をおびやかそうとします。秀吉は愛刀を抜いて、それらの人に向かって叫びながら斬りつけるのですが、フッと消えてしまいます。助けを求めて家臣の名を叫んだところで誰一人やってきません。

こうした状態が今なお続いているそうです。

苦しいのはこのような修羅界だけではありません。お金やモノに執着して貪欲に生きた人が落とされる「餓鬼界」、情欲に溺れて乱れた生活を送った人が落とされる「畜生界」などがあり、生前に為した生活行為に応じた世界へ落とされることになります。

一方、この世では常に自分を律し、人びとの役に立つための奉仕の生活を送った人は、その内容に応じて救いの機会を与えられることになります。

ただ、このような人はとても少なく、修羅界や餓鬼界、畜生界などの激しい世界で苦しんでいる人が大半のようです。実際、日々のニュースを見ても、自分の周りを見渡してみても、自分の利益ばかりを考えて、他人を思いやる余裕のない人がほとんどだという現状をみれば、そうならざるを得ないですね。

救いのカギは正しい信仰と供養

今あなたが修羅界や餓鬼界などのような激しい世界へ落とされたらどうしますか。

おそらく誰かに助けを求めるのではないでしょうか。しかし、それに誰も気づいてくれなかったとすれば、何とか気づいてもらおうと、その人にちょっかいを出すのではないでしょうか。

あの世でも同じことがいえます。修羅界へ落とされた死者は迷える霊となって、遺族に対して助けを求めるようになります。苦しみの波動はそのまま遺族に及び、原因不明の不幸や不運に悩まされることになるでしょう。

そこで、迷える魂に救いのきっかけを与え、遺族たちが自分たちの不幸や不運から開放されるために、正しい信仰と供養が必要となるのです。

お経を上げても浮かばれない

冒頭にも示したとおり、仏壇を構え、お墓参りにも出かけ、法事で僧侶を招いてお経を上げてもらうことが先祖供養だと思っている人が多いと思います。

しかし、残念ながらそのような形式的なの行事をこなしたところで、決して故人は浮かばれません。故人がお経を学んでいれば別ですが、普通の人はお経の意味が理解できないからです。

理解できないお経を上げられたところで、故人にとってのお経は雑音以外の何ものでもなく、心に響くことはありません。それなら、分かりやすい言葉で諭された方がはるかに意味のあるものとなるでしょう。

遺族がなすべきこと

お釈迦さまのお弟子さまに目連(もくれん)という方がおられます。目連は「天眼(てんがん)」という通力を持っておられました。天眼とは、肉眼では見えないものを視る力のことです。その天眼を使って、目連は死んだ自分の母親がどこに行ったのかを確かめてみたところ、何と地獄に落ちているではありませんか。

地獄で苦しむ自分の母親を、何とか救い出したいとお釈迦さまにお願いをしたところ、お釈迦さまからこう言われます。

「修行を終えた僧侶たちに食事の供養をしなさい。」

お釈迦さまから言われたとおり、目連は修行を終えた僧侶たちに食事を供養し続けることで、母親を地獄から救うことができたのです。

そもそも、なぜ目連の母親は地獄へ落とされたのでしょうか。

目連の母親は相当なケチだったらしく、托鉢に訪れた僧侶からの求めにも一切応じず、施しをしなかったことから地獄へ落とされたのでした。

子どもである目連が、その代償として僧侶に食事の施しをすることで母親は救われたのです。

この例から分かるとおり、故人の生前の生活行為の反対のことをすることが正しい供養のしかたということになります。

具体的には、故人が

  • 怒りやすい人だったとすれば、怒らず冷静に人に接するよう心掛ける
  • ケチな人だったとすれば、積極的に布施や喜捨、寄付などの施しをする
  • 自己中心的で他人を顧みない人だったとすれば、相手を尊重し、自己主張を控えるよう心掛ける

このように、故人の足りないところを遺族が補完していくのです。故人の身代わりはできなくても、故人に対して救いのきっかけとなる波動を送ることはできます。

波動を受けた故人は、自身の生前の誤った生活行為に気付かされ、反省することで救いの道が開かれてくるのです。

まとめ

以上のことから、先祖供養は必要不可欠なものであるということが分かります。

まとめてみますと、

  1. 自分本位の思いと行為で、人を顧みることなく一生を終えた人には、とても厳しい死後の世界が待っている。
  2. 厳しい世界に落とされた故人の魂は、苦しみに耐えかねて遺族に助けを求める。
  3. 故人の苦しみの波動を受けた遺族は不運や不幸に見舞われる
  4. 故人の生前の誤りを遺族が補完することによって、故人に救いのきっかけを与えることになる。

以上のことから、先祖供養とは形式的な読経でも法事でもなく、遺族の正しい生活行為にあるということです。

以上、ご参考になりましたら幸いです。