忍辱とガマンのちがいとは

「忍辱(にんにく)」という言葉があります。

仏教用語ですが、文字通り「辱(はずかし)めを受けても耐え忍ぶ」という意味です。
といっても、ただ耐えればよいというものではありません。ただ耐えるだけでしたら「ガマン」という言葉でもいいわけです。しかし「ガマン」と「忍辱」では全く内容が異なるのです。

ここでは、「ガマン」と「忍辱」がどうちがうのかをみていきましょう。

あなたは、どんなときに怒りを覚えるでしょうか。人によって怒りを覚えるポイントはちがうでしょうが、例えば

    • 信頼していた人から裏切られる
    • 仕事の失敗を人前で叱責される
    • 自分の身内が侮辱される

こんなことをされたら、普通の人は怒りに燃えますよね。裏切られたり、自尊心を汚されたり、身内が侮辱されたりしても平気だという人はそういないでしょう。

「〇〇倍返しだ!」

今テレビで人気のドラマに出てくる決めゼリフですが、「やられたらやり返す」という思いは誰にでもあると思います。

  • だまされたらそれ以上にひどい目に遭わせてやる
  • 恥をかかされれば仕返しをしないと気がすまない
  • 悪口を言われたら負けずに言い返さずにはいられない

普通はそうなりますよね。そうしないとなかなか怒りというものは収まらないものです。

しかし。

そういう目に遭っても、じっとこらえるのが忍耐なのです。どちらか一方が仕返しを止めないかぎり争いは続き、いつまで経っても心の平安はやってきません。

ただ冒頭でも示した通り、忍耐にも2つのタイプがあります。ひとつは「ガマン」であり、もうひとつは「忍辱(にんにく)」です。

ガマンとは、怒りの思いを心に宿しながらも表面上は平静を装うこと、また仕返しの準備を進めるために今はじっとこらえている、ということがガマンになります。

ガマンは長続きしません。人の心はそれほど強くないのです。心の中に押し殺している怒りの心が積もり積もっていずれ爆発するときがきます。爆発という結果は次の争いの原因を生み、再び爆発という結果をもたらします。そしてそれは何度となく繰り返すのです。いっときも心が休まるときがありません。

それに対して忍辱とは、耐えることによって怒りの思い、責める思い、裁く思い、恨みの思いから離れることなのです。これらの争いの思いから離れることで自分のカルマが少しずつ小さくなり、争いや不幸の原因がなくなると、自然と運命は開けてきます。

忍辱は大地に例えることができます。大地は人間や動物が踏んだり蹴ったり叩いたりしても全く動じませんよね。怒ることも仕返しをすることもありません。

お釈迦さまとお弟子さんの阿難陀アーナンダとのやり取りを紹介しましょう。

法を説いて遊行を続けている中、お釈迦さま一行はある町にたどり着きました。なぜかここではお釈迦さまを受け入れるどころか、振り向くこともなく、また怪訝な顔をして避けて通る人さえいました。

不思議に思った阿難陀は町の噂を耳にします。この町にはお釈迦さまをねたむ者がおり、町の悪者を買収してお釈迦様の悪口を言いふらして歩いているとのこと。

そのせいで誰もが家の中にかくれてお布施をしてくれないのです。そればかりか、後ろから悪口雑言を浴びせて「この町から出ていけ」とさえ言われる始末です。

阿難陀は「このような町は早々に引き上げて、もっとよい町へ向かうのはいかがでしょうか。」とお釈迦さまに進言します。

するとお釈迦さまは「阿難陀よ、次の町でもこのような状態であったらどうするか。」と尋ねられ、「それならまた他の町へ移ります。」と答えました。

お釈迦さまは「それならどこへ行ってもキリがないではないか。そしりを受けたのであればじっと耐え、そしりが消えてから他に移る方が良いのではないか。」

「仏は利益や損害、中傷や誉(ほま)れ、たたえやそしり、苦しみや悲しみなどによって動かされるものではない。このようなものは早々に過ぎ去り、忘れ去られていくものだ。」

お釈迦さまの言葉を聞いた阿難陀は、人の心に気を取られた自分の未熟さを反省したそうです。

お釈迦さまはお弟子さんたちに、バラモンの行者とは決して議論はしないように戒められたそうです。

バラモンから何を言われても相手にせず耐え忍び、心の平安に向かって地道に精進するようお弟子さんにいわれたのです。これがまさに忍辱というものですね。

イエスさまの最期も忍辱の最たるものです。十字架の人となり、命を奪われようとしているときでさえ、人々のために祈りながら昇天されました。自分を捉えた人たちに対して抵抗することも恨むこともなく、神さまへの信を貫きました。これ以上の忍辱はあるでしょうか。

以上のように、争いの心から離れられないことが「ガマン」であり、心の平安を目指すのが「忍辱」であるということです。

人から辱めを受けても、じっと耐えて怒りの心を残さないということはとても難しいことだと思いますが、神さま、お釈迦さまを信じて八正道の生活を心掛けたいですね。